02


一方、一足先に講義室を出た拓磨は大学構内に設けられている学生用の駐輪場に向かって歩いていた。もちろんその後を当然の様に周防が付いて行く。周防は直属の上司である日向に再教育でもされたのか、何かしら助言を受けたのか、今の所拓磨の気に触るような言動は無いし、その存在もさほど気にならないくらい、二人でいる時はその気配も抑えられていた。
いつしか日向が言っていた様に改めて評価すれば、周防が有能であることは確かなようだ。

拓磨は駐輪場に停めていた黒い車体が美しい真新しいバイクの元で足を止めた。

「………」

このバイクは恋人関係となった氷堂 猛から贈られたものだ。
いずれ自分も何かを返したいと思っているが、損得勘定で何かを差し出すのは止めろと猛に釘を刺されている。だが、実際に、今の所大学に通学するようとして使用しているバイクを目の前にすると、じわりと心の内に湧いてくる感情がある。

…やはり、俺も猛に何か返せたら。

それは決して損得勘定からくる感情なんかではないと思う。自分ではまだはっきりと断言は出来ないが。そのうちこの感情が心の中に降り積もって、いっぱいになり、表へと零れ落ちれば。俺も自然と損得勘定を抜きにしたお礼が出来る様になるだろうか。

リュックを背中に背負い直し、ヘルメットを被る。手にはバイク用のグローブを嵌めて、まだ包帯の残る胸元にあまり負荷をかけぬようにバイクのスタンドを上げてバイクに跨った。
エンジンをかけ、駐輪場を出る。
大学構内の広い車道へと出て、使用している駐輪場から一番近い門へとバイクを走らせる。周防も適度に距離を置いて拓磨の後をバイクでついて行く。
そのまま大学の門を出た拓磨は左折の合図を出して、車の流れに乗る様に大学を後にした。

そして、拓磨の護衛である周防が一番大変だと思っているのはこの瞬間である。特に行動に縛りの無い拓磨は大学を出た後、屋敷に帰るのだが。バイクで走るその道が毎回違うのだ。拓磨の気分次第か、周防は自分でもその周辺の地理に詳しくなったと思う。前を行く背中を見失わぬよう、併せて周囲への警戒も怠らぬよう、気を配りつつ周防はぽつりと零す。

「拓磨さんって、バイク走らせるの結構好きっすよね」

バイクを走らせているその背中は生き生きとしている様に周防の目には映っていた。



氷堂組の本宅とも呼ばれる、広大な敷地を誇る大きな屋敷。その裏門から一台のバイクが敷地内へと入って来る。また裏門に面した道路の上を一台のバイクが通過していく。周防は拓磨に付けられた護衛ではあるが、本宅の中まで入って行く許可は出されていない。なので、拓磨が本宅の敷地内へと入ったのを確認した後。その場を離れて行く。その足で組事務所に顔を出したり、近場で待機したりとその後のことは拓磨の予定と直属の上司である日向の指示により毎回変わる。

周防は流れて行く景色を目にしながら、今日も無事自分の役目をこなせたことに安堵の息を吐く。

「ふぅ…。これが日向幹部だったらもっと楽しんでやるんだろうなぁ」

自分はまだまだだと、その後気を引き締め直すのであった。



エンジンを切ってバイクをガレージの中に入れつつ、拓磨は今朝停まっていた車がガレージの中にない事を確認する。
現在の時刻は午後五時半を少し回った頃か。
今日は大学に行く拓磨の方が猛より先に屋敷を出ていた。

バイクをガレージの中に停めた拓磨はバイクの鍵を抜くとそれを上着のポケットに入れ、ヘルメット脱ぐ。手にしていたバイク用のグローブと共に、ガレージ内の壁面収納、壁に沿って取り付けられている棚板の上にヘルメットとグローブを置いた。
後は背にしたリュックをそのままに離れという名の、自分の帰る家となった屋敷へと歩く。

屋敷の玄関前で家の鍵をリュックの小さなポケットから取り出した所で、拓磨の表情がふと微かに綻ぶ。
手にした鍵で玄関の鍵を外し、玄関扉を横へスライドさせる。からからと小気味の良い音を立てて開いた扉に拓磨は迷う事無く前へと足を踏み出した。

「ただいま…」

誰もいないことは分かっているがぽつりと呟く。

ここが自分の家なのだとその思いを強く胸に抱いて。
心の中には一人の男の姿が浮かぶ。

「今日は飯を作らずに待ってろって言ってたな」

拓磨は出がけに交わした会話を思い出しながら、二階への階段を上がる。自室にリュックをおろし、それから手洗いに一階へ降りる。

「どこに連れて行くきなんだか」

今夜は外食と朝の時点で決められていた。ここしばらくは右腕のリハビリも兼ねて自分一人の時に限り、夕飯は自分で作っていたが。結局まだ猛にご飯を作ってやったことはない。なぜなら、母屋の方には自分よりはるかに美味い飯を作ってくれる専属料理人がいるのだ。わざわざ自分が作る必要性も感じなかったし、なんとなく躊躇う気持ちが拓磨の中にはあった。猛も猛であれ以降は別に何も言ってこないので、そのままいいかと勝手に結論づけていた。

手洗いを済ませた拓磨はリビングに入るとクーラーをつけ、それからキッチンに寄って飲み物を用意する。からりと氷を入れたグラスに麦茶を注いで、リビングに戻る。グラスを手にしたまま拓磨はリビングのソファに身を沈める様にして座った。
そして、冷えたグラスに口をつけ、麦茶を飲む。いっきに半分ほど減った麦茶のグラスをテーブルの上におき、息を吐く。

「はぁ…」

そうして外気に晒されて熱くなった身体の温度を下げ、その心地良さに瞳を閉じる。瞼の裏で思い返されるのは此処へ来て数日の間に起こった出来事だった。



猛が言っていたようにそれとなく拓磨に構ってくる人間がいたのだ。
とはいえ、基本的に母屋から離れて生活している拓磨に関われる人間など限られている。

そう、まずは猛不在時に屋敷の中の事を取り仕切っている近藤。

彼は猛の予定が急遽変更になった時など、唐澤等から連絡を受けて、俺のいる離れにそのことを伝えてくれたりする。今夜は遅くなるから夕飯は先に食べていろとか。その上、常に留守電にしておいていいと言われている電話にその旨を吹き込んでくれるので、拓磨としてはいちいち確認しなくても済むし、大変助かってもいた。なので、自然と拓磨の中でも近藤への評価は高くなっていた。

次に関わりがあるのは、やはり母屋で食事作りを担当している瀬良だ。
猛がいる時は拓磨も一緒に世話になるが。

ある日突然、件の留守番電話に瀬良からこんなメッセージが入っていたことがあった。

『今日、とてもいい黒毛和牛が手に入ったので、そちらで使いませんか?』

大学から帰って来て、そのメッセージを聞いた拓磨は僅かに迷った。
たしかに腹は空いていたが、今夜の食事は自分一人。
なにより、それを自分でどう調理しろと?さすがに拓磨も困惑を隠せなかった。

しばし悩んだ末、拓磨は初めて自分から母屋へと繋がる内線電話をかけたのだった。内線電話の使い方は一通り猛から教えられていた。もし自分が居ない時で、何か困った事があったら、母屋にいる近藤に言えと。

短い呼び出し音の後、相手が電話口に出た。

『はい、近藤です。どうしました?何かありましたか?』

どこからの電話なのかすぐに分かるようになっているのか、電話口に出た近藤は穏やかな声で聞き返して来た。

「…留守電に瀬良、さんからメッセージが入ってたんだけど」

『はい』

近藤は急かすことなくゆっくり相槌を打ち、拓磨の話に耳を傾けてくれる。

「黒毛和牛とか、そんないいもん貰っても料理できねぇし、俺一人じゃ食べれねぇから」

断ると、断りの電話を入れた。そう用件を告げて電話を切ろうとした所で、先に近藤の言葉が拓磨の耳に滑り込む。

『そうでしたか。少々お待ちください』

「は?」

拓磨としてはこのことを瀬良に伝えてもらえばそれでよかったのだが。
保留にされて、すぐ解除された電話口で再び近藤が口を開く。

『大変申し訳ありません。瀬良が先走った行動を取ったようで。もし、今晩の予定がお決まりでないようでしたら、瀬良の方で調理したものをそちらにお持ち致しますが、いかがでしょうか?』

「はぁ…」

拓磨とて大学から帰って来たばかりで夕飯の準備など何もしていない。とはいえ、自分一人ならば適当に米を焚いて、あとはフライパンを使って何か冷蔵庫にあるものを炒めて。
その時、ふと頭の中に生姜焼きが浮かぶ。
肉はあったかと、健全な男子大学生の食欲は肉へと傾いて行く。

『黒毛和牛のステーキにすきやき、しゃぶしゃぶに焼肉と。丼物にも出来ます。今ならまだリクエストも受け付けられます。如何いたしましょう?』

拓磨の思考を読んだかのように、いつの間にか電話相手が当の瀬良に代わっていた。そして、具体的な例を挙げて、流れる様に畳みかけて来た瀬良に拓磨はついぽろりと零した。

「すきやきより丼物だな」

一人で食べるならと、考えてつい口に出していた。
その言葉に耳を澄ませていた瀬良が静かに強く一度頷き返す。

『分かりました。丼物ですね。十九時にそちらにお持ちできるよう作らせて頂きます』

「は…、はぁ!?ちょっ!」

『度々申し訳ありません。瀬良が話の途中で』

もう一度近藤に戻った電話に困惑を隠せないまま拓磨は会話を続ける。

「いや、それはべつにい…いや、よくはねぇか…?」

『都合が悪ければ私の方から瀬良には言っておきますので、遠慮なく仰って下さい』

そう言われると、どうしても要らないと言う、断る理由が拓磨にはない。
瀬良の料理は猛と一緒に何度も食べているし、美味しい事も知っている。

「…十九時。リビングで待ってればいいのか?」

『そちらに伺う前に私から連絡を差し上げます』

「分かった」

『こちらこそ。瀬良の行動を大目に見て下さり有難う御座います』

その夜は大変美味しい黒毛和牛のステーキ丼に味噌汁、サラダとデザート付きの夕飯を完食したのであった。

そしてまた、つい昨日のことだが、拓磨が大学から帰って来るとまたしても留守番電話に瀬良からメッセージが。『カニが手に入った』と。

「カニ…」

この時期にと首を傾げた俺は間違っていないと思う。と、いうより、自分の中のカニのイメージが冬しかなかったのだからしょうがない。二度目となる近藤に電話をかけて、またしても流れる様に了承してしまった拓磨はその時、夏が旬のカニもあることを知った。

一人で食べた昨夜のカニ飯も味噌汁も大層美味しかった。

最後にもう一人、屋敷の警備を一任されているという荒木。
彼からは少しだけこの屋敷の事について話を聞く機会があった。

それは拓磨が大学の講義が一コマ休講になり、いつもより少し早く屋敷に帰った日のこと。ふと離れの和室から見えた中庭、和風庭園の方がなんとなく気になって足を向けてみた先。
その先で、小径に生えていた雑草を荒木が抜いていたのだ。その姿に気付いて途中で足を止めた拓磨。その気配に気付いてか、その場で立ち上がった荒木が拓磨の方を振り向く。ふとぶつかった視線の先で先に荒木が口を開いた。

「おけぇりなさい」

そうかけられた言葉に拓磨は驚き、とっさにどう返せばいいのかと瞳を揺らした。

そんな言葉をかけられるとは思ってなかったのだ。せいぜい見咎められるか。

しかも、返事を返さない拓磨に気を悪くすることもなく荒木は言葉を続けた。

「ちょうど鯉に餌をやる時間だ。やってみやすか?」

「え…」

「会長が子供の時分に餌をやっていた鯉もいやすよ」

「……猛が?」

「へぇ。海原の親父が趣味で飼い始めた鯉を会長は食用にもなるとおっしゃって海原の親父を慌てさせておりやした」

昔を懐かしむように、荒木の口調が僅かに柔らかさを帯びる。だが、拓磨が何よりも反応を見せたのは荒木の口から発されたその内容だ。
拓磨の知らない猛の姿。

その場に立ち止まったまま動けない拓磨のもとに荒木は庭園を見回しながらゆっくりと近付いてくる。

「建物の方は手を入れやしたが、この庭園だけは海原の親父がいた頃のまま。会長も時折足を運んでいやすよ」

それはこの庭園を猛が気に入っているということか。それとも単に息抜きの場所という意味か。
話に耳を傾けつつも動きを見せない拓磨に荒木は一定の距離を置いて足を止めた。

「鯉の餌はここにおいておきやす。終わったらまたここに置いといてもらえれば後で回収しやす」

荒木はそう言って餌の入った袋をツツジの低木の上に置く。そう言うだけ言って背を向けようとした荒木に向かって拓磨はぽつりと溢す様に言葉を落とした。

「……やったことないんだが」

猛が今も大事にしているなら尚更。下手なことは出来ない。自然と浮かんだ気持ちが拓磨の口を動かしていた。すると、その言葉にその場から立ち去ろうとしていた荒木は厳つい顔に似合わずどこか柔らかな空気を滲ませて、拓磨の声に答えた。

「なにも難しく考えんでも大丈夫です。不器用なワシでも出来ることですから」

そう言いながら荒木は拓磨に鯉の餌やりの仕方を教えてくれる。

「もちろんあげすぎは良くないが、今の時分ならこれぐらいは食べやす」

鯉は時期に寄って餌の量を調整して、食べ残しがないようにする。食べ残しがあると水を汚してしまって、それが原因で死んでしまうこともある。

「………」

初対面の時はピリピリとした重い空気に、この屋敷の警護を担っているというだけあってどっしりとした貫禄に只者じゃない威圧感を感じたが。
こうして話している分には、何の圧力も感じないし、それどころか拓磨を警戒した様子もない。
逆に親切すぎて拓磨の方が警戒心を抱いてしまう。

「とりあえず、あの辺に向かって投げれば勝手に向こうから寄ってきやすよ」

物は試しだと荒木は一度ツツジの低木の上に置いた袋を手に取ると、拓磨に向かってその袋を差し出してきた。それを無言で受け取り、拓磨は池に近づく。手にした袋の中からひと摘まみ、餌を摘まんで荒木が指差した方に向かってパラパラと餌を投げ入れた。

すると、すぐにすぅっと素早く寄ってきた朱色と白色のコントラストが美しい大きな鯉がさっそくとばかりにぱくぱくと口を開けて、拓磨が投げ入れた餌を食べ始める。その後すぐにやってきた黒色の鯉も競争するように口をぱくぱくと動かし始めた。

「…どこに居たんだコイツら」

「夏場は暑いので基本的に日陰になる場所にいやすよ」

木立の影が落ちる場所など、人と同じで涼しい場所に身を潜めている。

「それからそこの小路を入った先に小さな東屋がありやす。坊もこの庭園が気に入ったなら、そこで休んでいかれるといい」

「………」

東屋の説明よりも呼ばれた呼称に一瞬理解が遅れる。確かに自分は猛よりも、荒木よりもはるかに年下ではあるが。だからといって、もう坊と呼ばれる歳ではない。ーー俺はそこまで子供じゃない。

「どうしやした?」

黙り込んだ拓磨に荒木は何を感じ取ったのか、今度は分かり易すぎるぐらいの言葉を投げてきた。

「あぁ…この庭園を含めて東屋も基本的には余計な輩は寄り付かないと思いやすが。万が一変な輩に遭遇することがあれば、すぐそこの離れ、警備室にワシが詰めておるんで声を上げて下さい」

すぐに駆け付けやすと、荒木はいらぬ心配をしてきた。更に安心して下さいとも付け加えられる。
誰もそんな心配などしていないし、そんな輩が出てきたとしても相手にはしない。
むしろ、これまで経験してきた荒事と比べると変な輩に遭遇することなど、そんなたいした問題でもない。自分一人でどうとでも出来ることだ。だから、

「俺には必要ない」

荒木の言葉を冷たく切って捨てる。
だが、荒木は僅かに目を丸くしただけで、怒ったり不快に思ったりとそういった嫌な素振りも一切見せずに、ただ微かに目元を和らげた。

「これは失礼しやした。出すぎた事を」

「…分かればいい」

「でも、一応覚えておいてくだせぇ。何かあった時にはワシにも一声お願い致しやす」

「…あぁ。ないとは思うけどな」

それが荒木の仕事の範疇であるというならば。
こちらもその点については妥協しよう。

拓磨は荒木の反応に多少腑に落ちない感情を抱えながらも、小路の先にあるという東屋を案内され、それからしばしの間一人東屋で過ごした。何となく落ち着かない心を静めて、それから離れへと帰ったのだった。



「あれは結局受け流されたのか」

坊と呼ばれたことも訂正しきれなかった。
そう、今思い返せば…俺は瀬良にも荒木にもいいように流された気がする。
そして、そうと気付いてしまえば眉をしかめるしかない。

次があれば瀬良の話は断り、荒木には子供扱いせぬよう釘を刺そう。
まぁ、次があればの話だが。

拓磨は一人そう決意して、ここ数日の間に起きた出来事を心の中で整理した。

ふっと目蓋を持ち上げて残りの麦茶を飲み干すと、コップを片手にキッチンへと向かう。

「でも、猛の話が少し聞けたのは悪くなかったか…」

思いがけず聞くことの出来た昔話。
ただ、鯉を飼うだけじゃなく食用にしようとするところが猛らしいのか。拓磨は猛の姿を脳裏に思い浮かべて、小さな秘密を一つ手に入れてしまった子供のように少しだけそわそわと心を弾ませる。その不思議で温かな心地に知らず知らず口許が緩む。

そして、この話だけは猛本人にも伝えていなかった。猛には簡単に、荒木と庭園で遭遇して東屋の場所を教えてもらったとだけ。

なんとなく、まだ誰にも言いたくなかったのだ。
たとえ、他の誰かが知っている話でも。ひっそりと心の中にしまっておきたかった。



[ 92 ]

[*prev] [next#]
[top]



- ナノ -